札幌高等裁判所 昭和27年(う)458号 決定 1952年9月09日
控訴人 被告人 氏名不詳男(A) 外二名
主文
本件各控訴を棄却する。
理由
職権により本件控訴申立の適否を審按するに、
検察官は、昭和二十七年七月十一日被告人三名を軽犯罪法違反としていずれも氏名不詳のまま身体特徴着衣写真によつて特定してA、B、Cの符号を付し原裁判所に起訴したところ、同月十五日被告人三名は各自弁護士杉之原舜一を弁護人に選任する旨の届書を原裁判所に提出しているが右各届書には被告人氏名不詳A、B、Cと記載して拇印し弁護人杉之原舜一としてこれに署名押印している。
原審において、被告人等はいずれも裁判官の氏名、年令、職業、住居、本籍等の人定質問に対して黙して答えないまま公判手続を進め、同月二十一日被告人三名に対し有罪の判決を言渡したところ、同日右杉之原舜一は各被告人の弁護人として被告人氏名不詳A、B、Cの利益の為め控訴する旨当裁判所に宛てた控訴申立書三通を原裁判所に提出したことは一件記録により明らかである。
刑事訴訟規則第六十条は「官吏その他の公務員以外の者が作るべき書類には年月日を記載して署名押印しなければならない」と規定している。署名とは氏名を自署する意味であると解するのが相当であるが(昭和二十六年五月二十日言渡札幌高等裁判所昭和二十六年(う)第一八一号-一八二号判決高等裁判所判例集第四巻五号第五一二頁参照)同規則第六十一条は右の場合氏名の自署、又は押印ができないときの措置として「署名することができないときは他人に代書させ押印することができないときは指印しなければならない」と規定し、いずれにしても、作成者の氏名を明示することを命じている。
しかして、公訴提起後における弁護人の選任は、審級ごとに弁護人と連署した書面を差し出してこれをしなければならないことは刑事訴訟法第三十二条第二項刑事訴訟規則第十八条の規定するところであつて、連署とは、前記刑事訴訟規則第六十条又は第六十一条の規定による弁護人選任者と弁護人がその氏名を書き連ねることであることは申すまでもないところである。
然るに、被告人等の原審における弁護人選任届書には、前記の如く被告人氏名不詳A、B、Cと記載して拇印しているが、右A、B、Cは被告人等の氏名でないことは云うまでもないから右記載をもつて弁護人と連署したものとは認めるわけにはいかない。
被告人等は氏名を黙秘する権利があるとするもののようである。
しかし、刑事訴訟法は、基本的人権を尊重する建前から、原則的には被告人を証拠方法としての地位より除外し検察官が攻撃官として公訴の権利義務があると同様に防禦の地位にある被告人に応訴の権利義務を認め攻撃防禦の方法により真実を発見せんとするいわゆる当事者訴訟主義の原則を採用して之を濃化したのである。この点より考えると、黙秘権は証拠調の段階において犯罪に関する事実について始めて認められるのであつて、証拠調以前の訴訟構成の段階に於て氏名を黙秘するがごときはその範囲に入らないものと解するのが相当である。このことは「裁判長は検察官の起訴状の朗読に先だち被告人に対しその人違でないことを確めるに足りる事項を問わなければならない」と規定した刑事訴訟規則第百九十六条に基く被告人の氏名、年令、職業、住居、本籍等を質問する裁判長のいわゆる人定質問の後検察官が起訴状を朗読し次で裁判官は被告人に対し所謂黙秘権を告げる順序を定めた刑事訴訟法第二百九十一条刑事訴訟規則第百九十七条の規定に最も明瞭に現われでいる。
又そもそも、氏名は人の人格を特定する方法であつて、社会生活を営む者のひとしく有するところである。これを黙秘するかしないかはその人の自由であるかもしれないが、いやしくも能動的に何等か自己に利益な効果の発生を期待して行動せんとする場合その氏名を黙秘するとせば社会は当然にその効果の発生を拒否するのであろう。この一般社会生活における通念は、既に早く旧刑事訴訟法第四十二条第七十三条第七十四条等に採り入れられ、刑事訴訟法及び同規則に於てもこの趣旨を変更することなく前掲諸規定となつたものと考えられ、この事実も亦氏名につき黙秘権がないことの一証左となり得るであろう。従つて、本件の如く弁護人選任届である被告人等の氏名を明記することを要するとなすことは、憲法第三十八条第一項に云うところの「自己に不利益な供述を強要」されることにはならないと云わなければならない。
尤も、刑事訴訟法及び同規則の被告人又は被疑者の勾留、勾引、逮捕に関する規定の中には、被告人又は被疑者の氏名不詳を予想した規定はあるが、(刑事訴訟法第六十四条第二項、同規則百四十七条第三項、刑事訴訟法第二百条第二項、同規則第百四十二条第二項等)それは事件の捜査中で未だ被疑者の氏名が判名しない場合か、又は、被告人が逃亡して刑事訴訟法第六十一条本文の手続を行うことができない場合に対処するためであつて、決して被疑者や被告人に氏名を黙秘する権利があることを前提とするものではない。
以上の説示により、被告人三名の原審における弁護人選任は法令の方式に違反し無効である。しかして、前記弁護人としての各控訴申立は、被告人の利益の為め控訴の申立をする旨の記載に徴し、刑事訴訟法第三百五十五条に基く原審における弁護人として控訴の申立をしているものと解せられるが、原審における弁護人の選任行為は前記の如く無効であるから、杉之原弁護士は被告人等の原審弁護人たる資格を有せず、従つて、本件各控訴は無効であるといわなければならない。
なお、昭和二十七年七月二十一日被告人三名は、当裁判所に対し原審に提出したと全く同一形式(氏名不詳A、B、Cと記し同弁護士が之に署名押印した)の弁護士杉之原舜一を弁護人に選任する旨の弁護人選任届を提出しておるから、仮に前記各控訴申立が被告人の代理人として為したものであるとしても、当審における弁護人選任行為は前記と同一の理由で無効であり、従つて、杉之原弁護士は被告人等を代理する権限がないのであるから、右控訴の申立もまた無効であることが明らかである。
よつて、刑事訴訟法第三百八十五条第一項に則り主文の通り決定した次第である。
(裁判長判事 黒田俊一 判事 佐藤竹三郎 判事 東徹)